尖閣諸島問題尖閣諸島って何?歴史ともちぬしについて
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尖閣諸島(せんかくしょとう)は、東シナ海の南西部にある島々。沖縄県の本島と台湾の間にあります。
「尖閣諸島」の名前は、日本政府からこの島を借りていた古賀辰四郎のお願いした高知県出身の先生の黒岩恒が名付け親です。
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尖閣諸島の歴史

尖閣諸島は
魚釣島(うおつりしま)
久場島(くばしま)
大正島(たいしょうとう)
北小島(きたこじま)
南小島(みなみこじま)
沖の北岩(おきのきたいわ)
沖の南岩(おきのみなみいわ
飛瀬(とびせ)
の8つの島があります。
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尖閣諸島の周りは豊富に魚がとれる海域です。
1890年代 日本の漁師たちが漁をしていました
1895年 日本の領土に
1902年 沖縄県が尖閣諸島を含んだ地図を作成
1930年 土地の台帳に記されました
1951年 アメリカの政権下に
1950年 中国の会議では沖縄の一部として紹介
1972年 日本に返還
2013年 領海に侵入した中国海警を退去
尖閣諸島の存在は、中国の遠い昔の明代や清代、時代の書物に登場します。書物の中に尖閣諸島は中国の領土ですとは書かれていません。日本の領土だと書かれた昔の書物もありません。
1800年後半になるまで誰の土地でもありませんでした。1884年(明治17年)に探検した福岡県出身の古賀辰四郎は尖閣諸島を切り開きました。出来た村の名前は「古賀村」です。日本政府は1895年の会議で尖閣諸島を日本の領土にしました。
日本政府は、尖閣諸島を古賀辰四郎さんに4島(魚釣、久場、南小島、北小島)を30年間無料で貸し出しました。「古賀村」が尖閣諸島にはじめて人が住むことになりました。大正時代に入り、一番多い人口の時は200人ほど暮らしていました。1919年には、中国の漁師が尖閣諸島で遭難しましたが「古賀村」住民が救助しました。
全員が中国に帰ったあと中国から、1920年5月20日に感謝状が届けられました。感謝状のなかには、尖閣諸島が日本の領土と書かれていました。1932年に日本政府は長男の善次さんに約2,500万円(今の価値)で売りました。
第二次世界大戦中の1940年代前半には無人となりました。1945年に日本が戦争に負けたので尖閣諸島は、アメリカの支配下になりました。1951年サンフランシスコ平和条約によってアメリカはお金を払い、日本から借りる形で尖閣諸島の一部を米軍射撃場として使ってきました。その後、妻が所有し、1970年代に埼玉県内の親交のあった人物に約4,600万円で売却した。
1970年ごろから中国は尖閣諸島を自分たちの国の土地と主張。ただし中国は、1895年から1970年までの間、日本に対して何も言って来ていません。2002年から日本政府は所有者の栗原国起さんから尖閣諸島を借りていました。
2012年に魚釣島、北小島、南小島が国有化されました。
尖閣諸島の所有者の順番です。
尖閣諸島の最初の所有者は、古賀辰四郎さんです。
息子の古賀善次さん。
妻の古賀花子さん。1978年
栗原国起氏(古賀花子さんから譲り受けました)1972年
参考サイト
YouTube尖閣諸島の歴史
